古事記 青空文庫で読む 下の巻vol.6 清寧天皇・顯宗天皇・仁賢天皇【22~24代天皇】(頭の整理用)
以下参考
https://www.aozora.gr.jp/cards/001518/card51732.html
●清寧天皇
御子のシラガノオホヤマトネコの命(清寧天皇)、
大和の磐余いわれの甕栗みかくりの宮においでになつて天下をお治めなさいました。
この天皇は皇后がおありでなく、御子もございませんでした。
それで御名の記念として白髮部をお定めになりました。
そこで天皇がお隱かくれになりました後に、天下をお治めなさるべき御子がありませんので、
帝位につくべき御子を尋ねて、
イチノベノオシハワケの王の妹のオシヌミの郎女、またの名はイヒトヨの王が、
葛城かずらきのオシヌミの高木たかぎのツノサシの宮においでになりました。
●シジムの新築祝い
ここに山部やまべの連小楯おだてが播磨の國の長官に任命されました時に、
この國の人民のシジムの家の新築祝いに參りました。
そこで盛んに遊んで、酒酣たけなわな時に順次に皆舞いました。
その時に火焚ひたきの少年が二人竈かまどの傍におりました。
依つてその少年たちに舞わしめますに、
一人の少年が「兄上、まずお舞まいなさい」というと、
兄も「お前がまず舞まいなさい」と言いました。
かように讓り合つているので、その集まつている人たちが讓り合う有樣を笑いました。
小楯が聞いて驚いて座席から落ちころんで、その家にいる人たちを追い出して、
そのお二人の御子を左右の膝の上にお据え申し上げ、泣き悲しんで民どもを集めて假宮を作つて、
その假宮にお住ませ申し上げて急使を奉りました。
そこでその伯母樣のイヒトヨの王がお喜びになつて、宮に上らしめなさいました。
●歌垣
そこで天下をお治めなされようとしたほどに、
平群へぐりの臣の祖先のシビの臣が、歌垣の場で、そのヲケの命の結婚なされようとする孃子の手を取りました。
その孃子は菟田うだの長の女のオホヲという者です。
そこでヲケの命も歌垣にお立ちになりました。
オケの命・ヲケの命お二方が御相談なさいますには、
「すべて朝廷の人たちは、朝は朝廷に參り、晝はシビの家に集まります。
そこで今はシビがきつと寢ねているでしよう。
その門には人もいないでしよう。今でなくては謀り難いでしよう」と相談されて、
軍を興してシビの家を圍んでお撃ちになりました。
ここでお二方ふたかたの御子たちが互に天下をお讓りになつて、
オケの命が、その弟ヲケの命にお讓り遊ばされましたには、
「播磨の國のシジムの家に住んでおつた時に、あなたが名を顯わさなかつたなら天下を治める君主とはならなかつたでしよう。
これはあなた樣のお手柄であります。
ですから、わたくしは兄ではありますが、あなたがまず天下をお治めなさい」
と言つて、堅くお讓りなさいました。
それでやむことを得ないで、ヲケの命がまず天下をお治めなさいました。
●顯宗天皇
イザホワケの天皇の御子、イチノベノオシハの王の御子のヲケノイハスワケの命(顯宗天皇)、
河内かわちの國の飛鳥あすかの宮においで遊ばされて、八年天下をお治めなさいました。
この天皇は、イハキの王の女のナニハの王と結婚しましたが、
御子みこはありませんでした。
この天皇、父君イチノベの王の御骨をお求めになりました時に、近江の國の賤いやしい老婆が參つて申しますには、
「王子の御骨を埋めました所は、わたくしがよく知つております。
またそのお齒でも知られましよう」と申しました。
オシハの王子のお齒は三つの枝の出た大きい齒でございました。
そこで人民を催して、土を掘つて、その御骨を求めて、これを得てカヤ野の東の山に御陵を作つてお葬り申し上げて、
かのカラフクロの子どもにこれを守らしめました。
後にはその御骨を持ち上のぼりなさいました。
かくて還り上られて、その老婆を召して、場所を忘れずに見ておいたことを譽めて、
置目おきめの老媼ばばという名をくださいました。
かくて宮の内に召し入れて敦あつくお惠みなさいました。
その老婆の住む家を宮の邊近くに作つて、毎日きまつてお召しになりました。
そこで宮殿の戸に鈴を掛けて、その老婆を召そうとする時はきつとその鈴をお引き鳴らしなさいました。
初め天皇が災難に逢つて逃げておいでになつた時に、
その乾飯ほしいを奪つた豚飼ぶたかいの老人をお求めになりました。
そこで求め得ましたのを喚び出して飛鳥河の河原で斬つて、
またその一族どもの膝の筋をお切りになりました。
それで今に至るまでその子孫が大和に上る日にはきつとびつこになるのです。
その老人の所在をよく御覽になりましたから、其處をシメスといいます。
天皇、その父君をお殺しになつたオホハツセの天皇を深くお怨み申し上げて、
天皇の御靈に仇を報いようとお思いになりました。
依つてそのオホハツセの天皇の御陵を毀やぶろうとお思いになつて人を遣わしました時に、
兄君のオケの命の申されますには、
「この御陵を破壞するには他の人を遣つてはいけません。わたくしが自分で行つて陛下の御心の通りに毀して參りましよう」
と申し上げました。
そこで天皇は、「それならば、お言葉通りに行つていらつしやい」と仰せられました。
そこでオケの命が御自身で下つておいでになつて、御陵の傍を少し掘つて還つてお上りになつて、
「すつかり掘り壞やぶりました」と申されました。
そこで天皇がその早く還つてお上りになつたことを怪しんで、
「どのようにお壞りなさいましたか」と仰せられましたから、
「御陵の傍の土を少し掘りました」と申しました。
天皇の仰せられますには、
「父上の仇を報ずるようにと思いますので、かならずあの御陵を悉くこわすべきであるのを、どうして少しお掘りになつたのですか」
と仰せられましたから、申されますには
「かようにしましたわけは、父上の仇をその御靈に報いようとお思いになるのは誠に道理であります。
しかしオホハツセの天皇は、父上の仇ではありますけれども、
一面は叔父でもあり、また天下をお治めなさつた天皇でありますのを、
今もつぱら父の仇という事ばかりを取つて、天下をお治めなさいました天皇の御陵を悉く壞しましたなら、
後の世の人がきつとお誹り申し上げるでしよう。
しかし父上の仇は報いないではいられません。
それであの御陵の邊を少し掘りましたから、これで後の世に示すにも足りましよう」とかように申しましたから、
天皇は「それも道理です。お言葉の通りでよろしい」と仰せられました。
かくて天皇がお隱かくれになつてから、オケの命が、帝位にお即つきになりました。
御年三十八歳、八年間天下をお治めなさいました。御陵は片岡の石坏いわつきの岡の上にあります。
●仁賢天皇
ヲケの王の兄のオホケの王(仁賢天皇)、大和の石いその上かみの廣高の宮においでになつて、天下をお治めなさいました。
天皇はオホハツセノワカタケの天皇の御子、春日の大郎女と結婚してお生みになつた御子は、
タカギの郎女・
タカラの郎女・
クスビの郎女・
タシラガの郎女・
ヲハツセノワカサザキの命・
マワカの王です。
またワニノヒノツマの臣の女、ヌカノワクゴの郎女と結婚してお生みになつた御子は、カスガノヲダの郎女です。
天皇の御子たち七人おいでになる中に、ヲハツセノワカサザキの命は天下をお治めなさいました。